かぐや姫考5

かぐや姫は火の山の女王

原田実

 

山にて見つけたる童

 

 結果として、不死の薬を焼いた帝の判断は正しかったといえましょう。最近でもクローン技術などの応用で永遠の命が得られると主張する教団や団体がありますが、それは正しい道といえるでしょうか。限りあるこの世の生の尊さを『竹取物語』は現代の私たちにも訴えかけているようです。

『竹取物語』で、かぐや姫の噂を聞いた帝は彼女を宮中に召しだそうとします。しかし、かぐや姫は「宮づかへにいだし立てば死ぬべし」とばかりに断り続け、困った翁は都に上って「造麻呂が手に産ませたる子にもあらず、むかし、山にて見つけたる。かかれば、こころばせも世の人に似ずぞ侍る」と言上せざるを得ませんでした。

つまり、かぐや姫は翁の実子ではなく、山から出てきた娘なので、普通の人の人情と異なり、当然喜ぶべき宮中へのお召しをいやがっているというわけです。

帝は「造麻呂が家は、山本近くなり、御狩の行幸し給はむやうにて見てむや」と、姫の方から来ないなら、山での狩りという名目で翁の家に行って姫の顔を見ようと提案します。この会話では、姫が山で生じ、山で育ったことが強調されています。

『竹取物語』は富士山に多くの武士が登ったという地名由来譚で締めくくられています。『竹取物語』は山に始まり、山で終わる物語であると言っても良いでしょう。

その最後に「(富士山の)その煙、いまだ雲の中へたち昇るとぞ伝へたる」とあることから、平安時代初めの富士山の火山活動を伝える資料として重視する論者もあります(つじよしのぶ『富士山の噴火』前掲、他)。

富士山周辺では、サンカや修験者がその足跡を残しています。加茂喜三氏は、富士山こそサンカの発祥地であり、サンカとは失われた富士王朝の祭祀を受け継ぐ人々だ、と主張しました。

また、加茂氏によると、古代史で蝦夷の反乱といわれる事件も、その実態は富士王朝の残党による高天原復興運動だったというのです(加茂『富士王朝の滅亡』前掲)。

加茂氏は富士の西南、愛鷹山の超古代遺跡を調査中に実際にサンカと出会ったことがあると証言しています。

その人物は中東的な容貌で、腰に山刀を吊るしており、加茂氏はその顔を見た第一声に「君はエブス人か?」と叫んでしまったというのです(エブス人は古代イスラエル建国以前にパレスチナにいたという先住民族、一説には日本の蝦夷の祖先ともいう)。

加茂氏によると、そのサンカと思しき人物は、町で捨てられていた人形を拾っては、山中の聖石に捧げる儀式を行っていたということです(加茂『愛鷹の巨石文化』前掲)。

しかし、古代に噴煙を噴いていた山は富士山ばかりではありません。

 九州には阿蘇山、霧島山、桜島、開聞岳と活火山が多く、それらの山は『竹取物語』が成立した八〜九世紀にも噴火をくりかえしていました。熊襲・隼人研究の大家である中村明蔵氏は「隼人は火山と共生してきた」とさえ述べています(中村『隼人の古代史』平凡社、二〇〇一)。

『竹取物語』成立と隼人族の関係を視野に入れるなら、その最後に登場する富士山には、隼人の本来の住処である九州の活火山のイメージが投影されているとみなすことができます。

 

隼人の抵抗

 

『竹取物語』に文武朝ごろの政界の風刺が込められていることは前述した通りですが、この時代は隼人の抵抗運動が活発化した時期でもありました。

『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)六月の記事によると、薩末比売・久米・波豆らが率いる南九州の豪族たちと、肥人らが武器を持って、朝廷の覓国使を脅迫したため、朝廷では大宰府に命じて、律令にしたがって処罰させたとあります。

 サツマヒメ、クメ、ハズについて中村明蔵氏は前掲書で、現鹿児島県の川内川流域に勢力を持つ三人の女性呪術者だったと推定しています。また、肥人は肥国(現佐賀県・長崎県・熊本県)の人という意味ですが、すぐれた航海技術を持ち、大陸ともさかんに往来した海民でもありました。

大宝律令ができたのはその翌年の大宝元年(七〇一)、その制定を指揮したのは『竹取物語』の車持皇子こと藤原不比等だったといわれています。さらに翌大宝二年には薩摩・多執(種ケ島)の二国が征討され、その住民が戸籍に組み込まれました。

 覓国使の使命は屋久島・種ケ島・奄美などの南西諸島を調査し、律令国家に組み込むことでした。それは七〇〇年の時点ではいまだ朝廷の戸籍に組み込まれることなく、反独立を保っていた南九州の勢力にとって死活問題とも思われました。

 そこで抗議の兵を挙げたところ、かえって南九州を律令制の秩序に組み込むための口実を朝廷に与えてしまったのです。

 

物語による抵抗

 

 養老四年(七二〇)は律令国家の危機とみなされうる事件が続けざまに起こった年でした。二月、大宰府から都に急使が駆けつけ、隼人が蜂起して大隅の国主を殺したことを報告しました。

 八月、律令制度の確立に邁進していた藤原不比等が世を去ります。そして、九月には南の隼人に呼応するかのように陸奥国の蝦夷が反し、朝廷の按察使を殺したのです。

 朝廷は南に、北にと出兵して、反乱を鎮圧しました。もっともこれらは朝廷からみれば反乱でも、隼人や蝦夷と呼ばれた人々から見れば、律令制度を押し付けてくる朝廷へのせめてもの抵抗だったのでしょう。

 いったん確立した律令制度は立役者の不比等の死後も機能します。南九州には大将軍一名・副将軍二名が派遣されていますが、これは当時の軍制では、一万人以上の兵を陣立てするための人事です。南九州ではまさに「つはものどもあまた具して山へ登りける」という状景が展開したことでしょう。この時の南九州での戦果を『続日本紀』は「斬首獲虜合わせて千四百余人」と伝えています。

南北の兵乱は翌養老五年には鎮圧され、これ以降、南九州では隼人主体による大規模な反乱はなくなります。朝廷でも隼人を畿内に移配し、宮中で用いる竹製品などを作らせたり、朝廷の儀式の警護を勤めさせたりするようになりました。

 しかし、隼人は物語を語り伝えることで、律令国家に組み込まれることへの消極的抵抗を続けました。

それが巫者の口承などを通じて、文人たちにも影響を与え、やがては王朝物語文学の起源にもつながったと思われます。

 藤本泉は『竹取物語』のみならず、『源氏物語』『伊勢物語』など、平安王朝物語の多くが藤原氏支配への批判を込めた抵抗文学でもあったと指摘しています(藤本『源氏物語99の謎』産報、一九七六、『源氏物語の謎』祥伝社、一九八〇、『王朝才女の謎』徳間書店、一九八六)。

『竹取物語』が『源氏物語』絵合巻で「物語の出ではじめの祖」とよばれていることからすると、その抵抗の原点は、隼人の律令国家に対する反感にありそうです。

だからこそ、『竹取物語』では、直接の風刺の対象が、実際に成立したと思われる平安時代初めではなく、隼人の抵抗がもっともさかんだった文武朝ごろに置かれることになったのでしょう。

 

火の山の女神

 

 ここでいよいよ「かぐや姫」という名前そのものの意味について考えることにしましょう。『古事記』の人名「カグヤヒメ」以外で記紀に現れるカグヤという語としては、国譲りの直前、高天原で葦原中国平定の指名を与えられたアメノワカヒコが携えていたという天の迦具矢(天真鹿児矢)という武器があります。

この武器については、カグをシカ(鹿児)の意味にとってシカのような大きな獲物を狩るための矢とする説や、カグを銅の古語として、銅のやじりがついた矢とするなど、諸説がありますが、いずれも決定的とはいえません。

ただし、山田久延彦氏はこの語が、記紀で火神の名とされるカグツチと関係があるという鋭い着眼を示しましたが、結局は天の迦具矢は砲弾、ロケットの意味で、『竹取物語』はロケットの中から出てきた天空人の言い伝えに基づくものだというSF的解釈に落ち着いてしまいました(山田『古事記と宇宙工学』徳間書店、一九七九)。

 私はカグヤとは火の神の霊威を帯びた矢の意味であり、「カグヤヒメ」は本来、そのカグヤを操る女神だったものと思います。具体的には、矢のような火山弾を飛ばす火の山の女神です。

『竹取物語』の中で、帝が、かぐや姫の気性を評して「多くの人殺してける心ぞかし」といいながら、なおもその美しさへの評判に心誘われる描写がありますが、求婚者たちを破滅させながら超然とした美しさを保つ姿は、一度荒れ狂えば多くの人の命を飲み込んでいく火の山に通じるものがあるでしょう。

 火の山の女神が、南九州の隼人の伝承にふさわしいヒロインであったろうことはいうまでもありません。記紀神話のイザナミやコノハナサクヤヒメにもそうした火の山の女神の面影があります。

 

カグヤヒメの祭祀者

 

 北に阿蘇山、南に霧島山、さらに大小の火山に囲まれた熊本・鹿児島県境周辺は、かつては「落ち行く先は九州相良」(浄瑠璃『伊賀越道中双六』)と歌われるほど、周囲から隔絶した地域でした。鹿島昂は、この地方をサンカの根拠地とみなし、武士は山民から出て権力を握った者だから、その中で落ちぶれた者は同じ山民であるサンカを頼る、そのことが浄瑠璃に残ったと説明しました(鹿島『倭と王朝』新国民社、一九七八)。

 鹿島の説には三角寛・八切止夫らの先行説に引きずられたきらいがあります。とはいえ、古代の熊襲・隼人と後世の山の民との連続性の指摘には興味深いものがあります。

先に、畿内に移配された隼人が『竹取物語』成立だけでなく、箕作集団(いわゆるサンカの原型)の形成にも関わった可能性について指摘しましたが、隼人の本来の住処である南九州でも、隼人の手工業技術を受け継ぐ山の民が形成されていたのでしょう。

養老四年、西の隼人に呼応するように東の蝦夷が蜂起したことから見ても、律令制度への反感では東西会い通じるものがあったことがうかがえます。

『竹取物語』を生んだ隼人の伝承は、東日本にも広まり、それが『竹取物語』成立時にはその作中に反映し、さらに後にかぐや姫が富士山の女神として信仰される基礎となったのでしょう。

私見では、富士山周辺での律令制度への抵抗運動は、修験道の開祖・役行者(役小角)の事跡として、伝わっているものと思われます(役行者を文武天皇の皇子とする説もある。小林恵子『すり替えられた天皇』文芸春秋、二〇〇〇)。

 

かぐや姫の帰還

 

 南九州、丹波、富士とさまざまな地方の秘史を背負いつつ、かぐや姫は月へと帰っていきました。彼女がもたらした不死の薬も受け容れられることなく空しく焼かれるしかありませんでした。

『竹取物語』は失われた過去の栄光への挽歌であるとともに、地上にもたらされるには早すぎる知識の悲劇でもあります。

 かぐや姫がふたたび帰ってきたとして、人類は彼女を迎えることができるほど賢くなれるでしょうか。

 現代の科学技術は、生命工学にしても宇宙工学にしても、まだ粗雑なものにすぎません。むやみに誇ったところで、月のかぐや姫に笑われるのが落ちでしょう。

 しかし、私は将来については希望的観測を持っています。人類が長年積み重ねてきた英知を見直し、神と自然の導きに従うならば、科学技術は人の霊性を損なうものではなく、むしろその発現として働くことになるでしょう。すでにその兆候は現れています。

 よりよい未来を切り拓くためにも、日本人は「桃太郎」「浦島太郎」「かぐや姫」などの伝統童話や、『古事記』『日本書紀』などの神話の世界に遊び、学び、そして次世代へと伝えて生きたいものです。

 

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