『東日流外三郡誌』事件・偽作の「現場」を訪ねる     原田 実

ようやくここに来た、その思いが幾度も胸を去来した。平成15年2月18日、私は『東奥日報』記者の取材に同行し、謎の古文献?『東日流外三郡誌』が“発見”されたとされる五所川原市の農家を訪ねた。真贋問題に関わって十年以上、その当初からの念願がようやく果たされたのである。

 真贋論争が激化した1993(平成5)年ごろのことだ。『東日流外三郡誌』は本物だとする真作論者(その中には高名な大学教授やマスコミ関係者もいた)の側が、「この農家から『寛政原本』(江戸時代の寛政期に書かれたという原本)が出てくればすべての疑惑が晴れる」と主張した。

『東日流外三郡誌』は47年または48年ごろに“発見”された写本とされるが、筆跡は“発見者”たる和田喜八郎氏のものと酷似(実際には一致)している。

しかし、書写の元となった原本が存在し、それが江戸時代のものであるという鑑定結果が出ればその史料価値は証明できるかもしれないというのが、真作論者の言い分だった。

真作論者側の説明によると、農家の天井裏には大正時代以前の未開封の葛篭があり、その中には寛政期の原本が入っているはずだ、と和田喜八郎氏が請け合ったというのである。

 未開封の葛篭の中身がどうして確約できるのか不思議だが、まさに、おぼれる者はわらをもつかむである。こうした真作論者たちの主張は事情を知る研究者たちから「本当に原本が存在するのであれば、すぐにも公開したらいいのに・・・」と失笑を買ったものである。

和田喜八郎氏はその「寛政原本」なるものを出さないまま、1999年9月に世を去り、建物は最近、その親族の方の手に渡った。

 私たちはこの機会に、その天井裏に実際のところ何があるか(もしくはないか)を確かめることにしたのである。

 現所有者の許可を得て、広間天井に張られた耐火ボードを外し、懐中電灯で覗き込む。そこにはただ空間が広がるのみで何も置かれていなかった。

 『東日流外三郡誌』について、和田喜八郎氏は生前、それが天井につるした長持ちに入っており、落下してきて始めて気づいた、と語っていた。

しかし、天井の梁は細く、重い荷物など支えられようもない。また、長年、荷を縛ったような跡もなかった。

あるいは、私たちが行く前に未開封の葛篭が持ち出されたのでは、と言い訳する人もあるかも知れない。しかし、私たち以前にその耐火ボードを外した痕跡などなかった。しかも耐火ボードはあまりに薄く、梁との間も狭いので、その上に荷物を置くことなどできようはずもなかった。

 そもそもこの家は天井裏に物が隠せる構造ではなかった。天井の穴から見上げる屋根は萱葺きで、家屋中央の床には囲炉裏跡がある。

耐火ボードを張る前、この屋根に荷物が吊るされていたなら、家人は夜毎にそれを見上げつつ寝る羽目になっていただろう。

 また、和田喜八郎氏は晩年に、その家の仏壇から明治時代の書き物が出てきたとも主張していたが、その仏壇も見せていただいた。所々にガラス材を使っており、さして古い作りには見えない。

 現在の所有者は和田喜八郎氏のいとこで、少女時代をこの家で暮らしたという。彼女によると、この家は1940年頃の建築で、天井に耐火ボードが張られたのは1950年以降、仏壇にいたっては1981年以降に新しく買ったものだという。そもそもこの家に古いものは何も伝えられていなかったというのである。

 天井裏の一角には中二階があった。その部屋もよく見たが、物を隠せるような場所はなく、ただ二十本ばかりのペットボトルが残されていた。同行の斎藤隆一氏や『東奥日報』記者とともに中身を調べると、強い腐敗臭の液体が入っていた。放置された人尿の匂いだ。

その部屋は生前の和田喜八郎氏がよく籠もっていた所で、文献偽作の作業場と目される。古物商の間で伝わる話だが、古書の贋作者は新しい和紙に古色を着けるのに、腐敗した人尿を用いることがあるという。

そして、『東日流外三郡誌』など和田喜八郎氏によって“発見”されたという古文献には、しばしば不自然な染みがあり、何らかの液体が塗られたような跡を示していた。そのペットボトルを見つけた時、私たちはまさに事件の「現場」に足を踏み入れていたのだ。

『東日流外三郡誌』問題で失われた最大のもの、それは「信頼」だろう。大学教授やマスコミ、公的機関などがずさんな偽書に騙された。私たちはこの事実を教訓とし、権威ではなく事実に基づいて物事を判断する習慣をつけるべきではないだろうか。

『東奥日報』2003年2月28日付夕刊・寄稿に一部加筆、関連記事は同年2月25日付)

 

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