かぐや姫考2

かぐや姫の故郷

原田 実

 

富士山の伝説

 

静岡県富士市の富士浅間神社の縁起には『竹取物語』とよく似た内容のものがあることが知られています。

御伽草子の『富士山の本地』、白隠禅師(一六八四〜一七六八)の『竹取塚縁起書』や、南北朝時代・釈由阿の著『詞林采葉抄』、林羅山(一五八三〜一六五七)の『本朝神社考』、および『富士山本宮雑記』『駿国雑志』などに収められた縁起譚などです。

いずれも翁が竹林中に得た少女が、富士まで行幸した帝の寵愛を受け、後に浅間大神の示現という正体を明かすという大筋で一致しています。

ただし、少女の最期については山中の岩窟に入って消えたとするものと、飛車に乗って昇天し去ったとするものがあります。中には、帝も少女の後を追って岩窟に消えたため、その地に御陵を築いたとするものもあります(もちろん正史では歴代天皇で富士南麓に崩御した帝があるとは記していません)。

『竹取塚縁起書』『本朝神社考』『駿国雑志』などでは少女が去った後、その育ての親の翁と婆もそれぞれ愛鷹明神、犬飼明神として祭られたとあります。

『竹取塚縁起書』では少女が竹から生じたのは第十二代・景行天皇御即位の日だったとして、その時期をはっきり示しています。また、少女の名についても「赫夜仙女」すなわち「かぐやひめ」と明記しています。

これらの縁起の存在から、静岡県富士市の郷土史家・加茂喜三氏は、富士浅間神社の御祭神・コノハナサクヤヒメこそ、かぐや姫のモデルであり、『竹取物語』は富士の伝説が物語化したものだと主張しました(加茂『富士王朝の滅亡』一九七九、『愛鷹の巨石文化』一九八二、『木花咲耶媛の復活』一九八二、『ヒミコの故郷』一九八四)。

また梅山秀幸氏も、かぐや姫に浅間大神=コノハナサクヤヒメの権現としての側面があることを認めています(前掲『かぐや姫の光と影』)。

しかし、富士浅間神社縁起の少女は帝の寵愛を消極的ながらも受け入れており、『竹取物語』のかぐや姫の毅然さは認められません。

また、これらの縁起はいずれも南北朝時代以降のものであり、『竹取物語』が広く流布してからの成立であることは否めません。やはり、これらは『竹取物語』に基づきながら、民衆の常識により近い形で「修正」されて出来上がった伝説とみなすべきでしょう。

従来、『竹取物語』を民話・伝説の類とみなし、その原型を探す試みが幾度となく繰り返されてきました。その中で候補に挙がったのは、前にも述べた民話の「竹姫」、『今昔物語集』巻三一の「竹取の翁、女児を見つけて養う語』、『海道記』(鎌倉時代)の「昔採竹翁というものありけり」のくだり、鎌倉時代末期の『古今和歌集』注釈書にしばしば見られる竹取説話などです。それらはいずれも『竹取物語』よりも簡略で一見素朴な印象を与えるため、説話の原型を留めているのでは、と期待されました。

 

原型を探す試み

 

しかし、これらの説話の出典はいずれも年代的には『竹取物語』をはるかに下るものばかりです。内容的にもつじつまの合わないところが多く、その簡略の形は『竹取物語』の原型に近いからというよりも、『竹取物語』からの省略を示していると考えた方がよさそうです。高橋宣勝氏は「〈竹取物語〉の原型なるものは『竹取物語』そのものにほかならない」と言い切っています(前掲『語られざるかぐや姫』)。

しかし、そのような試みとは別に仏典や漢籍の中に『竹取物語』の原典を探す研究をすでに江戸時代から行われていました。かぐや姫の自立志向・天上志向にはどこか日本人離れしたところがあるとの印象がこの試みを支えています。

近代以降で、その代表的なところとしては、幸田露伴の『仏説月上女経』翻案説、佐々木照山の『穆天子伝』翻案説、藤岡作太郎の『漢武内伝』翻案説などが挙げられます。

一九六一年、中国四川省とチベットにまたがるカム地方の少数民族の民間伝承を集めた本が上海で刊行されました。その十年ほど後に、その中にあった「斑竹姑娘」という話が日本人研究者の注目を集めるようになります。

「斑竹姑娘」とは、竹から生まれた少女が五人の富裕な男性に求婚されながら、難題をつきつけて切り抜け、貧しいながらも働き者の少年と結ばれるという話です。  

しかも少女が求める難題の品々や、求婚者たちの失敗の有様までが『竹取物語』とそっくりでした。

「斑竹姑娘」と『竹取物語』の類似を最初に指摘したのは、当時、一介の大学生だった百田弥栄子氏であり、その研究は最初、卒業論文としてまとめられたものでした。

ところが日中関係正常化で友好ムードが高まっている頃でもあり、この事実が日本の学会で注目されるや、マスコミでも「かぐや姫の故郷は中国にあった!」との話題が盛り上がりました。

伊藤清司氏によると『竹取物語』にそっくりな中国民話があるのはカム地方だけでなく、台湾にも、竹から生まれた少女が求婚者たちに難題をつきつけ、後に月へと帰っていく話があるとのことです(伊藤『かぐや姫の誕生』講談社、一九七三)。

しかし、七〇年代以来、多くの研究者がチベット、四川省に現地入りして追跡調査を行ったにも関わらず、『竹取物語』の類話は他に一例も発見されていません。あたかも「斑竹姑娘」という説話そのものが、かぐや姫のごとく、多くの人の心を惹きつけたまま天に帰ってしまったようだ、と評した人もあります(つじよしのぶ『富士山の噴火』築地書館、一九九二)。

ヒロインが富裕な男どもをふって、貧しい少年を選ぶという話は古い民話としては不自然です。この結末は新中国の反封建・反ブルジョワ・労働者礼賛の風潮を反映したものでしょう。また、富裕な求婚者が貧しい少女に難題をつきつけるならともかく、その逆というのは中国の民話にはあまり類例がありません。「斑竹姑娘」は本当に古い民話なのか。こうなると、『竹取物語』にあまりにも似すぎていることがかえって疑わしくなるのです。かつて日本軍の軍事・諜報活動は揚子江流域の全域に展開していました。宣撫工作に派遣された日本軍人が地元の人相手に日本の物語を語ってきかせる機会もあったのではないか。もう一つの類話がかつての日本領の台湾にあるというのも、『竹取物語』のルーツが中国にあることを示すものではなく、かえって中国の類話こそ日本の『竹取物語』から派生したものであることを暗示しているといえましょう。

そもそも、かぐや姫への五人の求婚者が文武朝の実在人物をモデルにしているとの説が正しいなら、それと酷似する話が中国にあるとしても、まず日本からの影響を考えるのが筋というものでしょう。

今のところ、『竹取物語』の直接の出典を海外に求める試みは成果をあげているとは言い難いのです。しかし、個々の説が疑わしいにしても、その出発点にある疑問、すなわち、かぐや姫の日本人離れしたキャラクターがどこから来たか、という問いに答えることなくして、海外起源説をすべて否定するのは怠慢というものでしょう。

 

西方の月女神

 

 長塚杏子氏はギリシャ神話の月女神アルテミスをもう一人のかぐや姫と呼んでいます(前掲『かぐや姫の反逆』)。

比喩としてばかりでなく、かぐや姫の故郷をはるか西方に求めた論者もあります。

 先述の加茂喜三氏は、かぐや姫のモデルをコノハナサクヤヒメに求めただけではなく、この女神の出自そのものを古代オリエント神話の月女神に求めました。

比較文学の先達・土居光知は、かぐや姫とギリシャ神話のヘレネーを比較しました。ヘレネーといえば常に求婚者に囲まれ、ついにはトロイ戦争の原因になったという美女ですが、土居によると、彼女の本来の姿はかぐや姫と同様、多くの男に恋求められながら、なおかつ人の手の届かないところにいる女神であり、その共通の祖形はオリエント神話の宵の明星(金星)に求められるというのです(土居『神話・伝説の研究』岩波書店、一九七三)。

また、工藤慶三郎氏は、かぐや姫とキリスト教カトリックの聖カテリナはもともと同じ女神が東西に伝わったものだと唱えています。聖人伝によるとカテリナは、ローマ皇帝マクセンテイウス(在位三〇六〜三一二)の求婚を断ったために釘を植えた車に縛られるという拷問を受け、ついにエジプトのアレキサンドリアで斬首されたという聖女です。殉教後、彼女の遺体はシナイ半島に運ばれたとされています。工藤氏によると、シナイの地名はシュメールの月神シンに由来するもので、聖カテリナがその地に葬られたのは、かぐや姫が月に去ったのに通じる、また、聖カテリナが縛られた車輪は、かぐや姫を月まで乗せていった車にあたるというわけです(工藤『日本の国を作り堅めた神はデイオニソスである』全四巻+補遺一冊、北の街社、一九九三〜一九九八)。

 いささかこじつけめいてもいますが、かぐや姫の孤高は日本の他の女神よりも、古代ギリシャの運命の美女やキリスト教の聖女の方に近いものがあることは否めません。

 

隠蔽された「都」

 

『竹取物語』で、かぐや姫が求婚者に求めた宝のうち、「仏の御石の鉢」「火鼠の皮衣」は唐土天竺にしかないものとされています。『竹取物語』そのものに古代日本人が西方に求めたエキゾテイシズムが反映していることは明らかです。

他の宝のうち「竜の頸の玉」はその探索譚が西方騎士物語のドラゴン退治とそっくり(ただし『竹取物語』の竜退治は失敗)ですし、「燕の子安貝」は古代地中海地方などで貝を貨幣に使っていた史実の反映という説があります。  

なお、残る一つの宝「蓬莱の玉の枝」については、『竹取物語』文中にその別名が「優曇華の花」だったことを示唆する記述があり、興味深いところです。

 しかし、『竹取物語』の起源が西方の神話と関連しているとすると、今度はなぜこの物語の結末が東国富士に置かれているか、という疑問があらためて浮上してきます。その箇所を原文から引用しましょう。

「(帝は)大臣、上達部を召して“いづれのところか天に近き”と問わせたまふに、ある人奏す、“駿河の国にあるなむ山なむこの都も近く天も近く侍る”と奏す。(略)御文、不死の薬の壷ならべて、火をつけてもやすべきよし仰す。その由うけたまわりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山をふじの山とは名づけける。その煙、いまだ雲の中へたち昇るとぞ伝へける」

 不死の薬を燃やす煙だから、その火を消える(死ぬ)ことなく、いつまでも噴煙が上がっているというわけです。

 しかし、不思議なのは不死の薬と富士で語呂合わせをしたいのなら、素直に「不死の山」とでも言えばよい(現に『海道記』の竹取説話ではそうなっています)のに、『竹取物語』ではそうなっていないということです。

また『万葉集』では富士を「不尽」と表記し、尽きせぬ恋の思いを富士山の尽きない煙にかけた相聞歌の例もありますから、『竹取物語』でも、尽きない煙の不尽山という解釈が出てきてよさそうなものですがそれもない。

実際に出てくるのは多くの武士が登ったから、「士に富んだ山」で富士になったという、回りくどいものなのです。後世の研究者が「不死」「不尽」の意味もかけてあるのだろうと解釈してはいますが、それは『竹取物語』テキスト自体のとる立場ではありません。そして、それに代えるに大勢の武士という、王朝時代の宮廷人にとっては戦乱流血への不安ばかりをかきたてる光景を描いてしまう。

実在の人物へのあからさまな揶揄といい、不吉な結末といい、フィクションとはいえ、いや、フィクションだからこそなおさら『竹取物語』作者の意図には何か外聞をはばかるものがあったのでは、と疑われるのです。

なお、この結末にはもう一つ、不審な記述があります。それは東国富士が都に近いと書かれていることです。       

 『竹取物語』は「不死」「不尽」など無限・永遠の連想につながる解釈をわざと避けているのではないか。そもそも、帝がせっかく奉られた不死の薬を燃やしてしまう、というのも皇位の永遠性を否定する記述ととられかねません。

また、『竹取物語』が王朝時代の成立であることは間違いないにしても、あるいはその背景には私たちの知っている奈良や京都とは別の、富士に近い「都」が隠されているのではないでしょうか。

(続く)

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