かぐや姫考3

竹取の翁の栄光

原田 実

 

万葉の竹取の翁

 

河村望氏は『竹取物語』で、富士が都の近くにあるとされていることについて、この物語の真の舞台は伊豆方面であり、したがって作中の都も現在の奈良県京都府ではないとしています。すなわち、河村氏によると、壬申の乱(六七二)の頃まで、日本の都は実は東国に置かれており、『竹取物語』は八世紀の実在人物を登場させることでその消された「史実」を後世に伝えたというのです。

 また、河村氏は『万葉集』巻十六にある竹取の翁と九乙女の歌(新国歌大観番号三八一六〜三八二四)について、そこには翁と富士山、養蚕、機織との関係が歌いこまれていると唱えています(河村『上総の飛鳥』人間の科学社、一九九四)。

 この歌は『竹取物語』成立以前における竹取の翁の伝承を示すものとして貴重であり、従来から研究者の間で注目されてきたものです。

 その大意をいいますと、竹取の翁が三月ごろの春の丘で、あでやかな九人の美少女が羹(スープ)を煮ているのに出会った。美女は翁をからかい、鍋の火を吹くように命じた。

 翁はそれに従った後、思いがけず神仙に出会ったという戸惑いを述べ(つまり九乙女は「神仙」とみなされています)、その生まれてから老いるまでの回想を歌にし、美女らもそれに和して歌ったというものです。

 その中で翁は、自分が若い頃は紫の大綾の衣に高麗錦の紐をつけ、二色交ぜ織りの錦の足袋に黒い沓を履いて、宮中の女官や帝に仕える舎人からももてはやされるほどの男ぶりを誇ったものだ、と歌っています。

 この装束はどれも贅沢で庶民では手に入りそうもないものばかりです。また、紫は貴人の色で、誰もが身につけてよいものではありません。宮女や舎人からもてはやされたというのも、若き日の彼が宮中に出入りできるほどの身分だったことを示しています。

『竹取物語』では、かぐや姫を見つけるまでの翁の前半生は語られておらず、その暮らしぶりは裕福とは思えません。しかし、『万葉集』の竹取の翁は、老いてからはともかく若い時には富貴に恵まれた日々を送っていたようです。

 その富はどこから得ていたかも、歌に暗示されています。若き日の彼の装いは錦すなわち絹製品に満ちていました。

 翁は母の懐に抱かれていた頃の自分を「若子」「這子」と呼んでいます。これは人間の乳幼児とともに、蚕を意味する語でもあります。

ところが都で浮名を流していた頃の彼は「すがるのごとき腰細」を誇っていたともあります。

「すがる」とはヂガバチのことで、翁の若い頃は、つまり蜂のように締まったウエストの美少年だったというわけです。

 ところがヂガバチには、地中にシャクトリムシ(シャクトリガの幼虫)を引きずり込んで卵を産み付ける習性があります。ヂガバチの幼虫はシャクトリムシを体内から食いつくし、成虫になって飛び立つのですが、このことから中国でも日本でも、ヂガバチは蚕の類が蜂に変じたものだという言い伝えが生じたのでした。

 そこで翁は幼い頃の自分は富を生む蚕として育てられたはずなのに、美しいだけで何の稼ぎもないヂガバチとなり、しかもそのことに無自覚だった、と嘆いているのです。

 この歌には、竹取の翁の栄華を支えたのは養蚕業だったこと、しかも彼はそれを維持できなかったことが暗示されています。

 また、九乙女は翁に鍋の火を吹かせています。火を吹く所作の道化は、火吹き男、すなわちヒョットコですが、その面は片目を閉じて火加減を見ながら炎を拭き続ける鍛冶屋の顔を模したものだといわれています。

 鍛冶屋の言葉では精銅、精鉄のことを「銅を吹く」「鉄を吹く」というのです。つまり、九乙女は竹取の翁に鍛冶屋の所作をまねさせたことになります。竹取の翁は養蚕とともに金属精錬にも携わっていたのでしょう。

畑井弘氏は、「タケ」には古語で銅の意味もあったとして、『竹取物語』の題には、採銅、銅神祭祀の意が込められていると述べています(前掲『天皇と鍛冶王の伝承』)。

 

ミュージカル「竹取の翁」

 

土居知光は、九乙女について、春の祭りで野に出でて歌舞する八乙女と、その神楽で勧請された豊饒の女神をあわせたものだ、としています(前掲『神話・伝説の研究』)。

 土居はバビロニアのタンムズ、シリアのアドニス、フリギアのアッテイスなど、地中海・オリエント神話の美少年(地母神の愛子)の例を引き、竹取の翁は若き日にはそうした美少年を演じる芸能人だったのではないか、そしてその芸能人の先祖は西域、インドあるいはさらに西方から渡って来たのではないか、としています。

私は、竹取の翁がもともと芸能人だったというより、むしろ、竹取の翁と九乙女といった歌舞の演目が古くからあり、それが『万葉集』にとられたとみなすべきかと考えます。いわばミュージカル「竹取の翁」というわけです。

さて、竹取(竹細工作り)と芸能といえば連想されるのが、この二つを主な生業とした山の民、いわゆるサンカのことです。

田中勝也氏はサンカの生業である「箕作り」のはるかな元祖を『竹取物語』『今昔物語集』の竹取の翁に求めました(田中『倭と山窩』新国民社、一九七七)。

沖浦和光氏も中世の竹売りや近世以降のサンカが卑賤視の対象となっていたことを問題とし、さかのぼって「『竹取物語』も貧窮の民の夢物語として読むことができる」としています(沖浦『竹の民俗誌』岩波書店、一九九一)。

 

サンカ西方起源説

 

 サンカの起源と西方の芸能者の関連を指摘する説もあります。南方熊楠は、明治末期から昭和初期、柳田國男との往復書簡において、平安時代の日本に西欧のロムニー(いわゆるジプシー)に似たクグツ(傀儡子)という芸能民があったことを記しました。

ただし、南方は遊行放浪の中でそれぞれ独自に類似の生活様式を作ったものとみなし、ロムニーの日本渡来を否定しています。

一方、柳田は「何だか木村鷹太郎の説に近く候」としながらも、インドに発したロムニーが中央アジア、朝鮮半島を経て日本のクグツになった可能性にこだわり続けました。

しかし、柳田は後の『山人考』(一九一七)でクグツは天津神の支配を逃れて無籍無宿の生活に入った国津神の子孫であり、さらにその末裔がサンカになったとしました。

ロムニーからクグツ、そしてサンカという流れでサンカの起源を説明しようとした嚆矢は、西村真次の『日本文化史点描』(一九三七)です。

西村は「語源、生活様態、其他の点から、それ(山窩)が傀儡子と同一種のものであり、且つ欧州のジプシイと深い関係を有つてゐることが推論されるやうになつた」として、クグツにまつわる言葉をギリシャ語やサンスクリット語で解釈しようとしました。

この説は長らく忘れられた感がありましたが、一九八〇年代、佐治芳彦氏と杉山二郎氏により、それぞれ再評価されました。

ただし、佐治氏は自らもサンカの起源をインド・ドラヴィダ語族に求めたのに対し、杉山氏はロムニーと日本のクグツ・サンカの類似は確かだがその起源は異なるとしており、西村説への注目の方向性は異なっています(佐治『漂泊の民山窩の謎』新国民社、一九八二、杉山『遊民の系譜』青土社)。

西村説は現時点から見ると、いささか語呂合わせに頼りすぎたところもありますが、ここにサンカの生業を古の竹取の翁に連なるものであるとする説を介在させると、それは竹取の翁を西方の祭祀を日本に伝えた芸能人の末裔とする土居の説とも結びついてきます。

すなわち、ロムニーのような古代西方の芸能民−竹取の翁に象徴される芸能者・竹加工技術者−近世のサンカという流れです。

さらに『万葉集』の歌を考えに入れれば、彼らは養蚕や金属精錬の技術とも関係があったらしい、ということになります。

 

サンカ幕末発生説について

 

なお、最近、沖浦和光氏からサンカ幕末期発生説という新説が出されています(沖浦『幻の漂泊民サンカ』文藝春秋、二〇〇一)。

沖浦氏はかつて次のように述べました。

「サンカの発生は意外と新しく、近世末期から明治初期と推定することもできないことはない。それならば、なぜその時期に全国各地で“サンカ”が突然出現するようになったのか、その理由が説明されなければならない。だが近世末発生説を根拠づける要因は全く見当らない」(前掲『竹の民俗誌』)

しかし、沖浦氏はその後の探求により「サンカ」「山家」という名称の文献上の初出は江戸時代の文政年間あたりより前にさかのぼりえないこと、初出期におけるその語の意味は無宿無頼の輩の意味で、山林に生業をもとめる純然たる山の民とは別物だったことを明らかにしました。

箕作りに「お前はサンカか」と聞いても首をかしげるだけだ、という話がありますが、サンカがもともと特定集団の自称ではなく他からの蔑称であってみれば、それも当然でしょう。

竹売り、箕作りは農村生活になくてはならない道具をもたらす専門技術者でしたが、木地師やタタラ師のようなギルド的組織を持たず、また被差別部落の弾左衛門支配のような統制機構も持ちませんでした。

そのため、天明期以来の飢饉で農村に住めなくなり、山の入会地に逃れた人々と雑居するうちに、サンカ=箕作りというイメージが形成されたようなのです。

さらに一九二〇年代からは三角寛の書いた膨大な山窩小説がかえってサンカの実像をわかりにくいものにしてしまいました。三角氏は自由な山の民サンカのロマンを世にもたらす一方で、説教強盗サンカ説など偏見に満ちた物騒な話をも流布しており、真面目に生業に励む山の民にどれほど迷惑をかけたか、わかりません。

今となっては三角の山窩小説の功罪は罪の方が大きいといえるでしょう。私はこの沖浦氏の想定はおおむね正しいものと思います。しかし、沖浦氏が明らかにしたのは、近世末以降の「サンカ」イメージ形成であって、本来の竹取、箕作りの人々の起源を問うものではありません。そうして、近世末以降、サンカと呼ばれた人々にはその末裔が確かに含まれているのです。

したがって『竹取物語』に竹取、箕作りの原像をもとめるという手法は、沖浦氏の新説登場以降もその有効性を失っていないといえましょう。

 

隼人族の技術

 

ところで上代日本において竹製品で知られた人々といえば何者でしょうか。実はそれは南九州に本拠を置く隼人族なのです。養老二年(七一八)撰の養老律令(ちなみにその撰者は車持皇子のモデルこと藤原不比等です)では、隼人司が置かれ、畿内在住の隼人はその監督下で歌舞を学ぶこと、朝廷で用いる竹笠などの竹製品を作って献上することなどが義務つけられました。つまり、畿内の隼人は歌舞・狗吠という芸能と、竹製品を中心とする手工業の技術によって朝廷に奉仕することが求められたのです。延喜式では隼人司の役職も細分化され、宮中の儀式への参列、歌舞上奏、狗吠(儀式の際に邪気を祓うために犬の吠えるまねをすること)、油絹(油を塗った絹製品)や竹器の朝廷献上について細かい規定がなされました。

『大政官符』にも、大隅・薩摩の隼人は一年交代で京に上って宮中警護の任につき、非番の日には簾を織り、あるいは竹笠を作る役につく、とあります。翻っていえば、それだけ彼らの芸能と手工業の才が優れていたということなのでしょう。

沖浦和光氏は『竹の民俗誌』において、『竹取物語』はもともと隼人の伝説に取材したものではないか、と述べています。また、田中勝也氏は「サンカの竹細工と隼人の竹細工とは互いにつながり合ったものであることが知られる」「私はサンカなる山岳漂泊民の一つの源流を隼人にみいだすものである」と述べています(田中『古代日本異族の謎』大和書房、一九八八)。

つまり、隼人を媒介にしても、竹取の翁とサンカ(と混同された箕作り集団)との関連を想定することが可能になるわけです。         

(続く)

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