かぐや姫考4

竹取の翁の錬金術

原田実

 

竹の薬効

 

『竹取物語』の文面には隼人の故郷である南九州にまつわる記述はいっさいありません。そういえば『古事記』でカグヤヒメゆかりの地とされる丹波が『竹取物語』にはまったく出てこないのも興味深いところです。『竹取物語』が本当に隠蔽しようとしたもの、それは何だったのでしょうか。        

竹は道具の材料になるだけではなく、古くは薬用にも重宝していた植物でした。最近、健康食品や入浴剤として人気の竹塩、竹炭はその効能に着目したものです。

 日本古来の和方医学について記した『大同類聚方』や『医心法』にも筍や竹を用いた薬の作り方が多数収められています。

 その効能としては美肌、熱さまし、解毒、止血、咳止めと多様で、調剤にも用いられています。

これらの薬の中には、もともと古代中国での薬方だったものが渡来人によって伝えられ、日本の風土にあった形で定着したものもあるようです。

 槇佐和子氏は、『竹取物語』で、翁が姫を見つけてから、健康でかつ豊かになっていったとするのは、竹の薬効によるものであり、かぐや姫の原型は日本に製薬を伝えた渡来人の乙女だったのではないか、としています。槇氏によると、かぐや姫が求婚者に出した難題も調剤の器具や薬の材料を求めるものだったというわけです(槇『日本昔話と古代医術』東京書籍、一九八九)。

 竹薮は竹そのもの以外にも生薬の材料を探すのに向いた環境です。江戸時代には、被差別民出身の医者が人里離れた藪の中に居を構えることが多く、それが藪医者という俗語の語源になったといわれています(稲田陽一『被差別部落と天皇制』三一書房、一九七七、本田豊『白山神社と被差別部落』明石書店、一九八九、他)。

竹薮で取れる生薬は輸入品の高い薬を使えない庶民の命綱でもありました。「藪医者」こそは、庶民に密着して医療活動に従事してきた真の医師であったともいえましょう。

それはさておき『古事記』におけるカグヤヒメは丹波の県主の一族でした。和方医学の宗家として『医心方』を伝えた丹波家は、その名の通り、丹波の地に住した豪族・丹波宿禰の子孫であり、さらにその祖先は後漢の霊帝にさかのぼるという渡来系の名族です。

ちなみに俳優・丹波哲郎はこの丹波家の出身で家業をついで医師となることを望まれながら、芸能界に入ったという経歴の持ち主です。古代の医者はシャーマン・呪術者でもありましたから、その後の丹波哲郎氏の歩みを見ると、いささか変わった形で家業を継いだといえるかもしれません。

 

金と朱の魔術

 

『竹取物語』の、かぐや姫誕生のくだりには「竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけて後に、竹をとるに、節を隔てて、よごとに、金ある竹を見つくることかさなりぬ。かくて翁やうやうゆたかになり行く」とあります。つまり、竹取の翁は竹薮から竹だけではなく、金も得ていたのです。金は単に資産であるだけではなく、それ自体、薬効があるとされていた物質でした。

 古代中国の神仙道のテキストである『抱朴子』では、薬をその効能から上薬・中薬・下薬に分け、その上薬のトップに丹砂、それに次ぐものとして黄金をあげています。

 上薬とは、単なる長生きや病気治癒のためではなく、不死を得るために服するものです。

『抱朴子』によると、植物や動物から作る薬はいかに体に良いものであっても、所詮は腐るものであって不滅ではない。不死の体を作るための薬は不滅の鉱物から作らなければならないというわけです。

 金は決して錆びることがなく、上薬の代表となっておかしくはないものです。金の薬効への期待は、現在でも、金粉入りのお酒や、金箔入りの高級料理にその名残をとどめています。

 その金以上の上薬とされた丹砂とは、硫化水銀のことです。粉末の硫化水銀は鮮やかな朱色で染料にも用いられますが、簡単な操作で銀白色に輝く金属水銀にも、赤い酸化水銀にも、黒色の硫化水銀にも白い結晶の硫化第二水銀にもなるということで、変幻自在の仙人になる薬にふさわしいと思われたようです。

 また、純度の高い金を作るには、いったん水銀で溶かすアマルガム法が有効だということもあり、丹砂と金はセットで仙薬の原料によく用いられました。

 ここで思い起こされるのが、かぐや姫が帝に献じたという不死の薬です。その薬は、竹取の翁を富ませた、竹の中の金と同じものだったのではないでしょうか。

 中国神仙道の錬丹術は錬金術でもありました。神仙を志す道士は仙薬に必要な金を作り出す技術を誇っていましたし、それが不老不死ばかりではなく、富としての黄金を求めるスポンサーを釣るための宣伝にもなっていたのです。

 西洋中世の錬金術でも、金以外の金属を金に変成させるという「賢者の石」は人間をも不死にする力があると信じられていました。二〇〇一年度の大ヒット映画『ハリー・ポッターと賢者の石』もこの「賢者の石」による肉体変容を隠れたテーマとするものです。

 ただし、錬金術としての神仙道では、この「賢者の石」にあたるものとして、丹砂を用い、さらにその作用で生まれた黄金までを薬として服するわけです。

 日本列島には水銀鉱脈が多く、古くは魏志倭人伝の時代から平安時代末まで中国に丹砂を輸出していました。ところが時代が下るにつれて生産が減り、江戸時代には水銀加工技術そのものが途絶えてしまいました。これは鉱脈が尽きたわけではなく、水銀の加工技術が宗教的・呪術的な秘伝だったために武家政権の宗教統制で技術伝授が困難になったためと思われます。

 丹砂の鉱脈を探し、それを加工して金属水銀や丹薬に変える技術は日本では修験者の間に伝えられていました。いわば修験道は日本化した神仙道でもあったのです(内藤正敏『ミイラ信仰の研究』大和書房、一九七四、松田寿男『古代の朱』学生社、一九七五、若尾五雄『鬼伝承の研究』大和書房、一九八一)。

 水銀鉱脈を探す人々は、見つけた鉱脈に水銀の女神であるニウヅヒメを祭り(ニホツヒメ、ミホツヒメ、ミヅハノメの名で祭られることもある)、あるいは「丹」にちなんだ地名を残しました。

 丹波の国名もまた無関係ではなく、京都府竹野郡丹後町岩木にはミヅハノメを祭る丹生神社が鎮座ましましています。また、亀岡市にある丹波一ノ宮「元出雲」出雲大神宮の主祭神はミホツヒメです。

 薬方をつかさどる丹波家がこの地方に居を構えたのも薬の原料としての丹砂の有用性と無関係ではないでしょう。

『古事記』のカグヤヒメ、『竹取物語』のかぐや姫の正体は銅の妖精であると唱えたのは畑井弘氏でした(畑井『天皇と鍛冶王の伝承』前掲)。

 しかし、不死の薬との関連からいえば、かぐや姫は同じ金属とはいっても銅よりむしろ水銀と黄金に関わりが深い女神だったように思われます。

 

月は不死の象徴

 

 古代中国でも古代日本でも、月はしばしば不老不死のイメージと重ねられて伝承されていました。

 中国の古典に断片的に残る神話によると、昔、羿という太陽をも矢で射落とすほどの豪傑が西王母のもとから、不死の薬を盗んで、妻の姮娥に預けました。羿はそれを二人で飲むのを楽しみにしていたのですが、姮娥はそれを独り占めして月へと逃げてしまったのです。姮娥は夫を裏切った罰で醜いヒキガエルに姿を変えられたとも、姿は美しいままだが、月の空漠たる月にただ一人でいなければならないことを悔い続けているとも言われています(袁珂『中国の神話伝説』上、邦訳一九九三、青土社)。

 月の表に見える陰翳を中国では、ヒキガエルもしくは杵をつくウサギにみたてます。そのヒキガエルの正体が姮娥だというわけです。また、杵をつくウサギの図象は日本に渡ってウサギの餅つきになりましたが、もともとは薬の材料をつく姿とされており、やはり不死の薬に関する伝承です。

『万葉集』巻十三には次の歌があります。

「天橋も長くもがも高山も高くもがも月夜見の持てるをち水い取り来て君に奉りてをち得てしかも」(三二四五、新編国歌大観三二五九)

 つまり天に渡れる長い橋や、天まで届く高い山があったなら、月世界で月読命が守っているという若返りの水を取ってきて、主君にささげ、その老いを止めることもできるのにという嘆きの歌です。

 古代人にとって月と不死のイメージは重なっていたことから、月は地上の人間の生命をも操作しうる「神々」(宇宙人)の宇宙船だ、などというSF的空想をめぐらせた人もいます(小笠原邦彦『月の謎と大予言』日本文芸社、一九八七)。

しかし、満ち欠けをくりかえす月に、衰えてはまた若返る永遠の命を見るという想像は古代人のものとしては自然でしょう。わざわざ月宇宙船などを持ち出す必要はありません。

そして、このようなイメージがあればこそ、かぐや姫が帰る先は月でなければならなかったのでしょう。かぐや姫の迎えが月から来てこそ、その迎えのもたらした不死の薬を帝に献ずるという筋立てが首尾一貫してくるのです。

 

「不死」の代償

 

 しかし、帝は不死の薬を自ら服することなく、焼かせてしまいました。ここには日本人が中国文化受容に際して行った、ある重要な選択が反映しています。

 水銀の無機化合物をごく微量、正しく使えば殺菌や新陳代謝促進といった薬効が期待できます。年配の方には懐かしい消毒剤の赤チンキはその代表でした。

しかし、水銀化合物は毒性が強い危険な物質でもあります。だからこそ、現在では赤チンキの製造・使用は禁じられているのです。

 丹砂から作った薬を大量に服用していれば、やがては幻覚が見えるようになります。神仙道の伝承には丹薬を用いて、神仙の飛来を迎えられるようになった道士がしばしば出てきますが、それは水銀中毒による幻覚だった可能性大です。また、食事から五穀を絶って、丹薬を飲み続けていれば、水銀化合物の防腐・殺菌作用で死後、その遺体が腐りにくくなります。神仙道では、死後も遺体が腐らなかった人は屍解仙、すなわち仙人になったとして尊ばれました。また、日本の修験道における即身仏でも、丹薬を服して、あらかじめミイラになりやすい体質にしていたと思しき例があります(内藤正敏・松岡正剛『古代金属国家論』工作舎、一九八〇、内藤『ミイラ信仰の研究』前掲)。

 しかし、体質が変わるほど、丹薬を飲み続けるということは、水銀中毒による緩慢な自殺であり、その症状は苦しいものだったことが推定されます。しかも、中国では歴史上多くの権力者が不死を望んで丹薬を服していました。中国史にしばしば現れる暴君・昏君の蛮行・愚行には、水銀中毒の結果によるものも含まれていたことでしょう。

 ところが日本では、天武天皇のように丹砂の呪力を祭祀に用いようとした天皇・皇族はおられたものの仙薬として服することはありませんでした。天武天皇は晩年、延命のための薬を求めたと『日本書紀』にありますが、それは植物性のオケラ(キク科の多年草)で丹薬ではなかったのです。

『唐大和上東征伝』には、「日本の君王、先に道士の法を崇めず」という言葉があります。鑑真和上の渡日の志を知った遣唐使が、玄宗皇帝に渡航許可を申請したところ、道教の道士と同行するなら良い、との許可を得た(当時の唐帝国の国教は道教でした)。

しかし、日本の皇室は道教を信奉してはいないため、遣唐使らは正式な招聘をあきらめ、鑑真に密航を勧めるしかなかった、というわけです(新川登亀男『道教をめぐる攻防』大修館書店、一九九九)。

「道士の法」とともに丹薬を飲む習慣も、少なくとも大っぴらな形では日本の宮中に入ることはありませんでした。修験道の水銀加工技術が衰微した要因には、皇室をスポンサーとすることができなかったこともあるでしょう。しかし、おかげでわが国は水銀服用の悪弊を免れることができたのです。

(続く)

                                                扉に戻る